BB_nouriN’s blog

静岡県西部の山守一族

釈迦とイエスと神と創造と破壊

今日もせっせと畑を一から作り直そうと、土を削って盛ってを繰り返しながら、こんなことを考えていました。

 

これはなかなか理解され難い内容になるだろうと思いましたが、とりあえず書いてみて、どういう受け取られ方をされるのか。とても興味があります。最後までお付き合いいただけると幸いです。

 

現在、各地で様々な事が起こっていますが、【創造】されたものを【破壊】して再構築する。これが今の段階です。これは自然の摂理であり、世の理であり、法則です。

 

熱海の土砂災害を機に、ここでブログを書くことになり今に至りますが、熱海の土石流とはいったい何だったのか。

 

自分とは何であるか。その答えを自分の外側に求めたがために、世の理に反し、自然の摂理を歪め、破壊を生んだ。そういう類のものです。

 

天野と麦島。両者に共通している点。なんとなく宗教に救いがあると思っている。教会を作ろうとしたり宗教施設を作ろうとしたりしていて、その目的が何なのか私にはさっぱり解らなかったけれど、結果的に破壊を生んで死人を出した。彼等の行いが破壊を生んだ。人々を導こうとする先が破壊だった。そういう役回り。

 

政治も宗教も、間違った道に人を導いていけない。それに反すれば、それなりの報いを受ける。自然は在るがままに在るので、間違った姿のままで在り続ける事はありません。伊豆山も地球も宇宙も例外なくです。

 

創造と破壊というものは繰り返されることで学びを得るものなので、破壊が必ずしも悪い事だとは言えません。破壊が無ければ次の創造は起こらない。創造⇔破壊を行ったり来たりする。この破壊が次に何を生む事になるのか。

 

この事に限った話ではなく、創造と破壊はどんな場所でも常に起こっています。最小が【素粒子】だとすれば、最大は【宇宙】という事になりますが、自分の身体でも、日々創造と破壊は繰り返されている。

 

輪廻転生という概念がありますが、前世と現世と来世について、世間一般ではどのように考えられているでしょうか。前世の自分と現世の自分と来世の自分。何をもって同一だと認識できるのか。そもそも自分とは何をもって自分なのか。

 

これを自分の中に持っていなければ、自分を外に形成していおかなければ自分を保っていられない。昨日の自分と今日の自分は、何をもって同一であると言えるのか。寝て起きたら同じ状況だった。世界は昨日とさほど変化なく今日がある。

 

状況が連続しているから自分なんだろうと思うのは至極当然なのですが、もし状況が連続しなかった場合、外部に自分を求めてはいけません。自分の外には何もなく、自分は中にしかない。

 

自分の周りに何かが在るから自分が自分で在るのではなく、自分が自分で在るがゆえに周りが在る。これが逆になってしまうと、物質に依存したり執着するようになってしまいます。お金があるから自分が在り、家があるから自分が在り、車が在るから自分が在り、会社があるから自分が在り。それが自分を形成しているものだと勘違いしてしまう。

 

それが無くなった時に、自分という存在はどうなりますか。

 

どんなものにも【一生】がありますが、人の【一生】とは何でしょうか。生まれて死ぬまでが一生だと言う人が大半だと思いますし、私もそうだと思ってきましたが、ある時、私の認識は変わりました。

 

毎日が一生です。夜寝る時に死んで、朝起きた時に生まれる。

 

自分の周りの状況が物質的連続を維持しているために、一日は24時間で一年は365日だと、そういう認識になるのはごくごく自然な事ですが、時間が連続しているから同じ自分で在るという考えも、自分で在る事を外に求めています。時間と空間と物質の縛りというものは、それくらい強固に凝り固まったものだということです。

 

業と書いてカルマと読む。カルマとは何でしょうか。前世の業を現世に持ってくるとか、現世の業を来世に持っていくとか、イメージとしては悪いもののように感じますが、今目の前に在る物は、明日に持ち越せば明日もそこに在る。その程度のことです。

 

来世に持ち越したくなければ現世でやめればいいだけの話ですし、明日に持ち越したくなければ今日やめてしまえばいいだけの話です。長い時間かけて続くようなものじゃないです。一瞬で消えます。消せます。

 

天野や麦島は、自分というものがわかってない。決して破壊を生みたかったわけではない。でも、それをする道を歩んでしまった。自分の中に自分が無いから、外に外に自分を求めてしまった。金、地位、権力、それが無くなった時に、自分が自分であるという認識が持てなくなってしまう。彼らはそれくらい脆い。だから執着した。盛って盛って、それでも足らずに更に盛って。自らを外側に創造した結果、破壊を生んだ。

 

業という観点からこの二人を見ると、今日それを認められなければ、明日に持ち越して同じことをするし、現世で認められなければ来世でも同じ事をすることになります。

 

逆の立場から。被災者や関係者の業。今日という一日を業に縛られて過ごし、明日という一日を業に縛られて過ごし、現世を業に縛られて過ごしたいのであれば、それはそういう選択です。来世も同じ業を背負って過ごすという選択を私は認めます。そんな苦しい生き方は止めた方がいいよとは言いません。

 

業とはそういうものです。

 

この土石流によって逢初川は新しい姿になります。破壊された部分が再構築されるということです。破壊により新しく創造が成される。ここに悪い物(念)は持ち込みたくないものですね。伊豆山はそれを望んでいません。人の業を持ち込んではいけません。

 

あなたが新しい逢初川を創造するのであれば、どのような姿にしたいですか。

 

逢初川に限った話ではなく、自分自身の明日を、どのように創造したいですか。

 

まっさらな紙にゼロから創造しようってわけじゃないので、そんなに難しい事ではないと思います。ありとあらゆるものが目の前に在ると思いますので。

 

余計なものが在り過ぎて、どうにもならないというのであれば、一度まっさらにしてみるのも一つの手かと思います。

 

断捨離ってやつですね。

 

何もない状態というのは、それはそれで気持ちの良いものです。

 

釈迦とイエスと神 の話が出ていなかったので、これについてまた書こうと思います。等価交換の話とかも書けてない。

 

今回は、創造⇔破壊 が繰り返される事で、新しい世界は作られていくという話でまとまったのかな・・・。ぜんぜん自信ない。けどまあいっか。

 

ちょっと読み返してみたら、これは話の組み立てが下手くそだったなって思いました。

 

最後までお付き合いいただき有難うございました。

 

<m(__)m>