BB_nouriN’s blog

静岡県西部の山守一族

解らない事を考えるのをやめて 聞いてみる

私がはてなブログを使うようになるきっかけを与えてくださった武田先生が、この数日の地震活動について、とても興味深い事に気付かれていたので、動画を見てから今までに私がした事を書いておこうと思いまして。手短に。

 

youtu.be

 

先生が異常だと指摘されている 正午を界に、地震がピタッと止まる状態

 

私も色々と考えを廻らせてみましたが、様々な角度から考えてみたところで、これはどうにも説明がつきません。

 

それくらい変だということです。

 

それで、これはいくら考えたところで答えの出るものではないと気づいたので、考えてもわからないなら直接聞いてみたらいいんじゃないかと思って、頭をすっからかんにリセットした状態で問うてみました。

 

ねじれている

 

これがどういう状態なのか、物理的になのかエネルギー的になのか、今の所明確な答えは私の中にありませんので、私の理解の範疇では説明不能です。

 

物理的な現象だとして、内部と外部であれば、ねじれるというよりズレるという表現の方が的確だと思うので、おそらく内部と外部ではない。北半球と南半球なのか、北日本と南日本なのか、プレートとプレートなのか。

 

エネルギー的な現象だとして、午前中に動いて午後になると止まるものとは何なのか。この数日で変化した事といえば、休暇に入った事くらいでしょうか。人の動きは午前も午後も活発だなと感じるので、それではない。個ではなく全体だということになると

 

【地球】と【それ以外】の間で ねじれが発生している みたいな事が起こっているとも考えられます。面で動いてズレるのではなく、立体的に動いてねじれが発生している、となると

 

上下 の乖離が強まった とか

 

午前と午後の時間的な乖離が強まった とか

 

動く時間と動かない時間が分離された とか

 

考えても埒が明かないので、ねじれている というのが本当の事であれば 私ならどうするか。

 

双方が双方に 合わせればよい。ズレもねじれも、強制的に動かそうとするから起こるわけなので、強制的に動かそうとする事をやめればよい。なりゆきで動けばよい。流れるものを止めなければよい。そうすれば、ズレやねじれは自然と解消されます。

 

逆に、今までズレたりねじれたりしていたものが、元に戻ろうとしていると捉えることもできます。元に戻る過程で、それなりの動きはあるでしょうけれど。それも自然がやることなので、私たちがそれに合わせるしかない。反発する必要は無い。

 

そんなわけで、ズレたりねじれたりしているものが、元に戻ろうとしているのであれば、それが何であれ、多かれ少なかれ衝撃(反発)は生じます。それが ゆっくり であってくれれば良いのですが。現代社会は何かと忙しすぎる。皮肉なものです。

 

総括。動画内で武田先生が仰っているように、地震(災害)に対する備え、万全にしておきましょう。年末年始で忙しいから出来ないなどと言っていると、ねじれに対する反発が増して衝撃が大きくなってしまいますので、ゆっくりと、落ち着いて、急がず、その時を待つ。

 

備えあれば患いなし <m(__)m>

みずほ銀行障害連発と18歳以下給付金なんで?

みずほ銀行がシステム障害を起こしまくって怒られていますが、なんで?

 

みずほ銀行には、ちゃんとお金ありますか?

 

資産が差押えられたり引き上げされたりして、無くなっちゃったりしてないですか?

 

いくら大銀行でも無いお金は吐き出せませんよ

 

政府は政府で

 

18歳以下に給付金を配って、子育てを支援するとか言っていますけど、

 

子供のためのお金なら、もらった親はすぐには使わないですよね。

 

私の周囲はそう思っていますよ。だからおかしいよねって。

 

すぐに使わないお金を給付したところで経済対策にはならないよねって。

 

そもそも、銀行口座を持っていない世代に給付するとして、どうやって受け取るんですか。0歳児が銀行口座持ってるわけないでしょ。

 

誰が受け取るんですか。親ですよね。というか、一旦、銀行が受け取る事になるわけですよ。

 

それって、すぐに引き出されたら困るお金ですか?

 

だから、すぐに引き出されないようにするにはどうしたらいいかって考えたんですか?

 

だとすると、生活に困っている人を助けようとしているんじゃなくて、銀行を助けたいってことですか?

 

みずほ銀行だけじゃなくて、地方銀行も? いよいよヤバいんですか?

 

資産が凍結されるとか、資産が引き上げられるとか、ありそうでなさそうな話ですけど、やられた方々がいらっしゃるのであれば、ご愁傷様です。

 

中国の方のでっかいところも、いよいよアレみたいですし、経済戦争もそろそろ大詰めなのでしょうか。ババを引くのはどこになるのか。

 

暴発しない事を願います。

 

<m(__)m>

第三次世界大戦

このタイトルはBANされないだろうか?

 

一抹の心配と共に、今の私が見ている世界を書いてみようと思います。

 

2019年の年末、私は肺炎にかかり5日間ほど寝込みました。熱は39℃超出ました。それでも不思議と辛くはなかったです。大晦日までにはしっかり回復して元気に餅つきをしました。我が家では毎年恒例の行事です。

 

年が明けて2020年の1月。第3週くらいになって、武漢での様子が伝えられるようになり、月末頃になると米軍が変な動きをしたり米国に帰国した研究者がその場でFBIに連行されたり、そんな情報を耳にして、”これは始まったな” 。そう思いました。

 

私の見ている世界では 第三次世界大戦 が 現在進行形 です。

 

この間、ふと気になって母に問いました。

 

「一般人って何をもって戦争だと認識する?」

「ミサイルが飛んで来たら戦争が始まったと思う?」

赤紙が来て徴兵されたら戦争が始まったと思う?」

NHKが開戦しましたって放送したら、戦争が始まったんだなって認識する?」

 

「もし第三次世界大戦が開戦したとしたら、それはイコール、この世界の終わりだからね」

 

これには母も納得していました。

 

核戦争になればそうなりますよね。始まり=終わり。

 

だから開戦させないようにしてる。

 

戦争をしたいグループと、戦争をさせたくないグループの争い。

 

一般人が戦争の開始を知らぬまま、この争いが終わるのであれば、それはそれで結構な事です。先の大戦では【玉音放送】が放送されて一般人は戦争が終わった事実を初めて認識したわけですから、今の状況が収束し、何事もないまま NHK が「終戦しました」と伝えてくれれば、これ幸いです。

 

日本では【江戸時代】という長い時代がありましたが、明治、大正、昭和、平成、令和、この時代をひとくくりにしたら、なんという時代になるでしょうか。

 

私は【戦争時代】だと思っています。

 

明治維新で海外から持ち込まれたもの。それが【戦争】です。日本では【戦国時代】という乱世を経て、【江戸時代】という戦争のない時代が形作られました。それはそれは平和な時代だったと思います。

 

それが壊された。今でも壊れている。壊れたままなんです。

 

戦争というと、侵略だとか殺戮だとか、そういうものを考えがちですが、今回の戦争で、戦争をしたい人達が、どうして戦争をしたいのか、その理由が明確になりました。

 

多くの人々を恐怖させたい。一人でも多く不安にさせたい。

 

奪うのも殺すのも、それ自体が目的ではない。不安にさせ、恐怖を煽り、それを愉快だと楽しんでいる。

 

2020の年初から今日までの間、世界中の人々が、どれだけ不安になり、どれだけ恐怖したか。

 

世界には【戦争に民間人を巻き込んではいけない】という決まりがありますが、そんなものは知った事ではない。そもそも、第二次世界大戦で、日本の民間人を巻き込んだのは合法だったでしょうか。大空襲で民間人が死なないとでも?原爆落として民間人が死なないとでも?そういうおかしなことを平気でやってくるんですよ。恐怖に怯え、不安に暮らす、そんな人達の様子を見るのが楽しくて仕方のない連中です。ろくなものではありませんね。

 

日本国民を、これ以上恐怖させてはいけない。不安にさせてはいけない。それが日本が敗戦という形をとった理由です。相手がルールを破ったとしても、結果的にそういう形になったわけですから、敗戦は敗戦です。戦争とはそういうものです。

 

今回の【流行病】が生み出した不安や恐怖の総量が計れるとしたら、どれくらいのものになるでしょうか。実体のないものを計量する事はできないので、何かと比較する事も出来ないのですが、経済戦争というものが、これだけの不安恐怖を生み出すということを目の当たりにして、正直驚いています。

 

お金が無くなるというだけで、人はこれ程にも不安になり、恐怖するものなのですね。

 

前段階で【仕込み】があったと言えばあったわけですが、あまりに酷い惨状です。

 

お金に依存させられていませんか? 要らぬものを与えられ、それがあれば生きられると誤認させられ、それが無くなったら死んでしまうと思い込まされていませんか?

 

世界の経済がボロボロになったところで人は死にませんよ。お金が無かったら死んでしまうなどと誤解しているのは人間だけです。特に先進国の人は酷いですね。これはもう洗脳されているといっていいレベルだと思いますよ。

 

お金がなくても衣食住ができたら死なないですから安心してください。お金が無かったら衣食住が成立しないと思っている人は、被災した時に確実に死にます。日本で被災した人が確実に死にますか?確実には死にませんよ。ちゃんと助けが来ます。日本とはそういう国です。

 

ただし、今は少し状況が違うかもしれません。被災したら助けが来ないかもしれません。それくらい余裕のない状況です。

 

お金がなくても生きられる。被災した状況でも生きられる。そういう生活を想像して再現してみてください。いきなりできるわけではないので、徐々にで良いと思います。出来そうにないことは人に聞いたり、助けてもらったり、協力したりしましょう。

 

大丈夫です。生きられます。

 

そもそも、今の人は【死】というものを怖がり過ぎです。これもひどく誤認させられてきたから仕方のない事ですが、【死】んでも大丈夫です。【死】というものがどういうものなのか、それすら教えないから当たり前の事がわからない。【死】んでみないとわからない。

 

だから怖いと思ってしまうんです。不安になるんです。

 

これも【仕込み】に入っているので、戦争をしたい連中というのは、本当に厄介です。

 

不安にさせたい怖がらせたい、それだけのためにそこまでしますか・・・。って感じですね。そもそもが違うようなので仕方のない事なのですが、どうしても理解できません。

 

【金】や【物】や【死】に執着するのはやめましょう。今この瞬間を【生きる】事に執着してください。あれをやっておけばよかったな。これをやっておけばよかったな。そんな生き方をしていませんか。今日という一日をやり切って終わりましょう。

 

日々此れ一生

 

こんなに的を得た言葉はないです。毎日をやり切って死んだように寝て、起きたら生き返ってまた一日をやり切る。毎日死んで毎日生き返る。そんな生き方をしていたら、今この瞬間に死んでも悔いは残りません。

 

それを、なんとなくで過ごしていたら、何のためにその身体を持ってこの世界に生まれてきたのか、わからないまま終わってしまうじゃないですか。

 

それを自ら意図してやっているのであればけっこうな事なのですが、自ら意図しない事を、嫌だ嫌だと思いながらも仕方なくやっているのであれば、それは要らぬ我慢です。

 

時に我慢が必要な事もありますが、たいていの場合は必要ありません。我慢が人を幸せにすることは無いです。自分が不幸せになれば周りの人も不幸せになります。我慢が我慢を生んでしまっては良い事にはなりません。

 

今回もまとまった感じがしないまま、途中になってしまうのですが、この辺で一旦終わりにさせていただきます。

 

毎度毎度中途半端になってしまって申し訳ないのですが、随時書き足して行きたいと思いますので、宜しくお願いします。

 

<m(__)m>

釈迦とイエスと神と創造と破壊

今日もせっせと畑を一から作り直そうと、土を削って盛ってを繰り返しながら、こんなことを考えていました。

 

これはなかなか理解され難い内容になるだろうと思いましたが、とりあえず書いてみて、どういう受け取られ方をされるのか。とても興味があります。最後までお付き合いいただけると幸いです。

 

現在、各地で様々な事が起こっていますが、【創造】されたものを【破壊】して再構築する。これが今の段階です。これは自然の摂理であり、世の理であり、法則です。

 

熱海の土砂災害を機に、ここでブログを書くことになり今に至りますが、熱海の土石流とはいったい何だったのか。

 

自分とは何であるか。その答えを自分の外側に求めたがために、世の理に反し、自然の摂理を歪め、破壊を生んだ。そういう類のものです。

 

天野と麦島。両者に共通している点。なんとなく宗教に救いがあると思っている。教会を作ろうとしたり宗教施設を作ろうとしたりしていて、その目的が何なのか私にはさっぱり解らなかったけれど、結果的に破壊を生んで死人を出した。彼等の行いが破壊を生んだ。人々を導こうとする先が破壊だった。そういう役回り。

 

政治も宗教も、間違った道に人を導いていけない。それに反すれば、それなりの報いを受ける。自然は在るがままに在るので、間違った姿のままで在り続ける事はありません。伊豆山も地球も宇宙も例外なくです。

 

創造と破壊というものは繰り返されることで学びを得るものなので、破壊が必ずしも悪い事だとは言えません。破壊が無ければ次の創造は起こらない。創造⇔破壊を行ったり来たりする。この破壊が次に何を生む事になるのか。

 

この事に限った話ではなく、創造と破壊はどんな場所でも常に起こっています。最小が【素粒子】だとすれば、最大は【宇宙】という事になりますが、自分の身体でも、日々創造と破壊は繰り返されている。

 

輪廻転生という概念がありますが、前世と現世と来世について、世間一般ではどのように考えられているでしょうか。前世の自分と現世の自分と来世の自分。何をもって同一だと認識できるのか。そもそも自分とは何をもって自分なのか。

 

これを自分の中に持っていなければ、自分を外に形成していおかなければ自分を保っていられない。昨日の自分と今日の自分は、何をもって同一であると言えるのか。寝て起きたら同じ状況だった。世界は昨日とさほど変化なく今日がある。

 

状況が連続しているから自分なんだろうと思うのは至極当然なのですが、もし状況が連続しなかった場合、外部に自分を求めてはいけません。自分の外には何もなく、自分は中にしかない。

 

自分の周りに何かが在るから自分が自分で在るのではなく、自分が自分で在るがゆえに周りが在る。これが逆になってしまうと、物質に依存したり執着するようになってしまいます。お金があるから自分が在り、家があるから自分が在り、車が在るから自分が在り、会社があるから自分が在り。それが自分を形成しているものだと勘違いしてしまう。

 

それが無くなった時に、自分という存在はどうなりますか。

 

どんなものにも【一生】がありますが、人の【一生】とは何でしょうか。生まれて死ぬまでが一生だと言う人が大半だと思いますし、私もそうだと思ってきましたが、ある時、私の認識は変わりました。

 

毎日が一生です。夜寝る時に死んで、朝起きた時に生まれる。

 

自分の周りの状況が物質的連続を維持しているために、一日は24時間で一年は365日だと、そういう認識になるのはごくごく自然な事ですが、時間が連続しているから同じ自分で在るという考えも、自分で在る事を外に求めています。時間と空間と物質の縛りというものは、それくらい強固に凝り固まったものだということです。

 

業と書いてカルマと読む。カルマとは何でしょうか。前世の業を現世に持ってくるとか、現世の業を来世に持っていくとか、イメージとしては悪いもののように感じますが、今目の前に在る物は、明日に持ち越せば明日もそこに在る。その程度のことです。

 

来世に持ち越したくなければ現世でやめればいいだけの話ですし、明日に持ち越したくなければ今日やめてしまえばいいだけの話です。長い時間かけて続くようなものじゃないです。一瞬で消えます。消せます。

 

天野や麦島は、自分というものがわかってない。決して破壊を生みたかったわけではない。でも、それをする道を歩んでしまった。自分の中に自分が無いから、外に外に自分を求めてしまった。金、地位、権力、それが無くなった時に、自分が自分であるという認識が持てなくなってしまう。彼らはそれくらい脆い。だから執着した。盛って盛って、それでも足らずに更に盛って。自らを外側に創造した結果、破壊を生んだ。

 

業という観点からこの二人を見ると、今日それを認められなければ、明日に持ち越して同じことをするし、現世で認められなければ来世でも同じ事をすることになります。

 

逆の立場から。被災者や関係者の業。今日という一日を業に縛られて過ごし、明日という一日を業に縛られて過ごし、現世を業に縛られて過ごしたいのであれば、それはそういう選択です。来世も同じ業を背負って過ごすという選択を私は認めます。そんな苦しい生き方は止めた方がいいよとは言いません。

 

業とはそういうものです。

 

この土石流によって逢初川は新しい姿になります。破壊された部分が再構築されるということです。破壊により新しく創造が成される。ここに悪い物(念)は持ち込みたくないものですね。伊豆山はそれを望んでいません。人の業を持ち込んではいけません。

 

あなたが新しい逢初川を創造するのであれば、どのような姿にしたいですか。

 

逢初川に限った話ではなく、自分自身の明日を、どのように創造したいですか。

 

まっさらな紙にゼロから創造しようってわけじゃないので、そんなに難しい事ではないと思います。ありとあらゆるものが目の前に在ると思いますので。

 

余計なものが在り過ぎて、どうにもならないというのであれば、一度まっさらにしてみるのも一つの手かと思います。

 

断捨離ってやつですね。

 

何もない状態というのは、それはそれで気持ちの良いものです。

 

釈迦とイエスと神 の話が出ていなかったので、これについてまた書こうと思います。等価交換の話とかも書けてない。

 

今回は、創造⇔破壊 が繰り返される事で、新しい世界は作られていくという話でまとまったのかな・・・。ぜんぜん自信ない。けどまあいっか。

 

ちょっと読み返してみたら、これは話の組み立てが下手くそだったなって思いました。

 

最後までお付き合いいただき有難うございました。

 

<m(__)m>

肥料屋の父と自然農をやりたい娘

先日、肥料屋の伯父さんがトラックでやって来て、こんなことを言ってました。

 

「娘の家の畑を手伝ってあげようと思っていろいろ用意したんだけど、草ボーボーにしちゃって困った。何がしたいのかさっぱりわからん」

 

この肥料屋の伯父さんは私の従妹の父で、肥料屋さんに勤めてかれこれ20年くらいになる人なのですが、次女が自宅の横の畑で菜園をやり始めるにあたり、自分の経験を元に色々と指南してあげようと思って頑張ったそうです。

 

長年放置されていた耕運機を直し、肥料を用意し、農業資材も用意して、さあやるぞ。となったわけですが、それに対して娘は

 

耕運機は使わない。肥料は使わない。農業資材(マルチの類)は使わない。

 

という不耕起自然農。をやりたい(話を聞いている限りではそんな風)ようで、これは、慣行農法に20年浸かって来た伯父さんには理解不能でも何ら不思議はないなーと。

私自身、これを伯父さんにどう説明したらいいのか、とても難しいなと思って、自分の畑の土を弄りながら、自然農って何?みたいな思考を廻らせてみました。

 

自然農は慣行農法と何が違うのか。

 

その決定的な違いは、私が思うに【考え方】だと思います。

 

【やり方】が違うだけなら、娘に言われたように手伝ってあげればいいだけの事なので、何ら難しい事ではないはずです。しかし、そもそもの【考え方】が違うとそうはいかなくなる。

 

自然農において、機械(化石燃料)を使うとはどういうことなのか、肥料(化成・有機)をやるとはどういうことなのか、資材(鉄やビニールやプラスチック)を使うとはどういうことなのか。その行為をする意図は何なのか。

 

美味しい食べ物をたくさん収穫したい。

 

これが【考え方】根本にあるのではないでしょうか。それが行為の意図です。

 

いわゆる【欲】というものです。

 

自然農の大原則に、他の場所から持ち込まない。他の場所に持ち出さない。と言う考えが在りますが、【肥料】を【欲】と捉えると、これを圃場(田畑)に持ち込みたくないという気持ちが理解していただけるかなと思います。

 

肥料を撒けば撒く程、自分の【欲】を作物に与える事になり、その【欲】を吸って育った作物は【欲】の塊となる。人がそれを食べると人はどうなるか。

 

こんな事を考えて農業をしている人は、ごく少数だと思いますが、自然農とは、掘り下げていけば実はそういうもので、作物を育てるという行為が意図するものを自らに問う。そういった一面があり、自分の【在り方】【考え方】を見直す修行みたいなものです。

 

栄養が足りないと思うから肥料を持ち込もうとしてしまうわけで、そこに栄養が足りていないという事は無いし、勘違いして【欲】を持ち込んでしまう必要もありません。

 

草ボーボーの土地に栄養が無いと思うのは、とんでもない勘違いです。

 

栄養があるから草がボーボーになる。だから肥料は要らない。

 

ここに肥料を撒いて栄養過多になるとどうなるか。様々な弊害が発しますね。虫が寄って来るとか。作物が腐り易くなるとか。

 

結局、肥料を撒く事で、防虫のために殺虫剤が必要になり、農薬を撒く。

 

いつからこんなやり方をするようになってしまったのでしょうか。「これは間違っているよ欲張り過ぎだよ」と教えてくれる人は居なかったのでしょうか。不思議でなりません。

 

先日、T先生に「JAは搾取しているのですか?」と問われ、「JAが搾取していると思うかどうかは人によると思います」という、少し曖昧な表現でお茶を濁してしまいましたが、正直申しますと、JAは農家の私財を搾取していると私は感じます。

 

私は今のJAに投資したくありません。

 

おそらく、これが最も簡単な理由になると思います。

 

今のJAには将来性がない。農業を生業としている団体が、農業を生業とする人の手助けをせず、農業を生業とする人を育てない。農家の預金で株を買い、ローンを組ませて利息を取る。保険を勧めて保険料を取る。要らぬ肥料を勧め、要らぬ農薬を勧め、ビニールハウスを勧め、農業機械を買わせ、規格に合わない作物を廃棄させる。

 

これが農業協同組合のする事ですか。【欲】の塊か!と言いたくもなります。

 

全てが全てこうだとは言いませんが、おかしいと思う事が多すぎる。

 

ずっと農業に携わってきた人にとってはこれが当たり前になっしまっていて、そう思わないのかもしれませんが、畑違いの場所から農業に関わる事になった私にとって、農業は違和感だらけでした。改善すべき事が多すぎて何から手を付けたらわからない程に無駄だらけ。今でもそうです。その原因の一端をJAが握っているというのは、全くおかしな現実です。

 

話が大きく逸れてしまったので、JAの話はまた今度。話を自然農に戻します。

 

自然農は修行のようなものだと言いましたが、自然農が修行であるとはどういうことなのか。畑で土を延々と削ったり盛ったりしていて浮かんだひとつの解。

 

修行と呼ばれるものの一つに【瞑想】というものがありますが、【瞑想】で【無】という状態を【創造】する事は難しい。だからこそ【無】を【創造】するために【瞑想】をするわけです。自分自身が【無】の状態になる事で【無限】であり【全てが在る】事を理解する。【無】を【創造】できれば、逆の【有】を【創造】する事は容易い。

 

「あれがない。これがない」と思っているうちは【有】を【創造】することは出来ないと思います。【畑】に【栄養】が【無】いと思い込んでたら、種を撒くことはしないですよね。自分自身が【無】であるのなら、何も考えずに種を撒くものなんです。

 

種を撒けない人は【欲】がありすぎて種を撒けない。

 

種と肥料と農薬と、ビニールハウスとトラクターと、他に何が必要ですか。知識と経験と、あげだしたらきりがない。これを畑に持ち込もうとするから、何もできなくなる。そういう思い込みをするように洗脳されてしまっている。

 

心当たりがあるようでしたら、草ボーボーの場所に座って瞑想する事をお勧めします。

 

何かする必要は無くて、ただひたすらに瞑想し続ける。

 

草ボーボーの場所はちょっと嫌だなと思う人は、どこでもいいです。身体が地面(地球)と接していて、無音または自然の音しか聴こえないような状態。

 

最近は素足で歩くという事も少なくなっているので、砂浜とかを素足歩いてみるのもよさそうですね。地面と直に接するって本当に大事なんです。木とか草とかに触れるのも同じくです。

 

余談ですが、私には一本の木があります。この木が在るから自分が在る。みたいな一本です。自分と山を接続する触媒みたいな働きをしているのかなって、いつからかそんな事を思うようになりました。

 

そういうものが誰にでもあるものだとすれば、それが見つかるかもしれないです。

 

まーた今回も長文になってしまいました。なんだかんだ、肥料屋の伯父さんは従妹のやろうとしている事がいずれ解ると思います。今だに現役で肥料屋をやっているから解らないだけで、年老いていけばわかる。いくつになったら解るのかは・・・わかりませんけど。

 

【瞑想】して【無】を【創造】すればわかる。とか言うと、肥料屋の伯父さんには余計わからなくなりそうなのでやめておきます。【肥料】とは【欲】だ!とかなんのこっちゃです。でもいずれ解ります。大丈夫(´∀`)bグッ

 

<m(__)m>

伊豆山神社と熱海市長

熱海伊豆山土石流災害から100日が経過しました。

 

伊豆山の心はここに在らず。

 

追悼式でも説明会でも、心ここに在らず。

 

待ちぼうけだなって、今でもそうだなって、思います。

 

市長はわかっていないんじゃない、わかっている。だから動けない。

 

行政はわかっていないんじゃない、わかっている。だから動けない。

 

怖いんですよ。市長だって行政だって人なんです。否を認めて自分が責められることが怖いんです。だから真実に向き合えない。自分がどうなってしまうかわからないから。

 

だからと言って、逃げていいわけじゃない。ちゃんと向き合うべきです。市長であるならば、市民と向き合うべきなんです。行政もです。

 

伊豆山は、市長が来るのを待ってるんですよ。だから待ちぼうけなんです。

 

伊豆山神社の社が何本の柱で建てられているかご存知ですか?

 

2000本とか、3000本とか、数を数えればいいだけの話なんですけど。

 

今回の土石流で、そのうちの何本が無くなったかご存知ですか?

 

政治事に直接意見したくない(影響したくない)性分なので、出来る限り政治家とは接点は持たないようにと心がけてきましたが、8/3に、熱海市長に宛てて、一通のメールを出させていただきました。返信が無かったので、読んだか読まれなかったかわかりませんが、その事を思い出したので、その内容を一部抜粋して掲載します。

 

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熱海は穢れなき神聖な場所です。「伊豆山神社」をはじめ、多くの加護の下に伊豆山地区は有りました。

市長としての責務に追われ、忙しい中であるとは思いますが、今一度、神聖な熱海を取り戻すために、斎藤様の御力を貸してはいだだけませんか。

つきましては「走湯山般若院」「走湯神社」「結明神社」「伊豆山神社」「伊豆山神社本宮社」の順に廻ってください。順はお守りください。

余裕がありましたら、「結明神社本社」「稲荷大神」「白山神社」も廻っていただけると尚良いです。こちらに順はございません。

これを公務とするのは難しいかもれませんが、神社参拝に反対するような者は日本にはおりませんので、安心して取り組んでいただけます。民が話したがるようであれば、境内でお話を聞いて差し上げれば下手な事にはなりません。

出来る事ならば毎日とお願いしたいところではありますが、市政に差し支えるようでは宜しくありませんので、

まずは一週間に一度でも、足りないという事はございませんので、お考えいただければと思います。

伊豆山地区の被災者は斎藤様の事を期待して待っておられます。怒りの声が大きいのは期待の裏返しです。

これからも、熱海を正しく導いてくださいますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。

 

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全文の半分くらいですが、この声は熱海市長に届いたでしょうか。

 

市長が人目をしのんで参拝しているという話は聞こえてこないので、見なかったか、届かなかったか、無理難題だと思われたか。

 

もし、熱海市長が、これをやっているとすれば、あなたは市長を責めますか?

 

やっているかやっていないかはさておき、人の行動は目に見えて伝わるものですが、その姿勢。在り方。思考。念。そういう類ものが、今の伊豆山には在りません。

 

熱海市長はいつまで待っても伊豆山に来ない。向き合えない。姿勢がおかしい。在り方がおかしい。思考がおかしい。念は・・・今の市長がどういう扱いをされているか、そのものです。市民の態度が市長の態度なんです。

 

社の柱は、30本ほど無くなってもすぐに倒壊したりはしません。ただ、それは物理的な話であって、社とは、物理的なものの上に建っているわけではないですよね。

 

市長の椅子は物理的な物ですが、その椅子は何が在ってそこに在るものなのか。大切な事を忘れてはいませんか。

 

人の居ない所に柱は無く、柱の無い所に社は建ちませんよ。

 

その社の柱が欠損して倒壊しそうになったのであれば、真っ先に行って支えとなるのが長の仕事でしょう。何のための支持ですか。市長という力を与えられて、椅子を与えられて、食べるものも住むところも無くしたわけではないのに。

 

自分に与えられた仕事に感謝して、それを全うしようとは思わないのですか。

 

私は今日も種を撒きました。

 

土と水を与えられれば全力でその仕事を全うする。それが種です。

 

この種が、いずれ柱となり、社となる。

 

伊豆山神社に護られているということは、そういうことです。

 

護るから護られる。与えるから与えられる。

 

熱海市長がこの件に於いて悪い関わり方をしてしまっていると知って、そういうものから護られなければ市長は動けなくなる。私はそう思って一通のメールを出しました。伊豆山には善も悪もなく万人が護り護られる。何事にも怖がらず仕事を全うできる。

 

今、伊豆山に向いて本気で仕事を全うしようとしている人は、伊豆山と同じで待ちぼうけしているんだと思います。期待して待っているけれど、その人がいつになったら現れるのか。しびれを切らせている。

 

その柱は、熱海市長だと思いますか? 静岡県知事だと思いますか? 国会議員ですか? 政府ですか?

 

やはり、伊豆山の事は伊豆山に聞くのが一番なんですよ。

 

伊豆山神社に柱は何本ありますか。

 

<m(__)m>

丹後の風力発電所計画をどう感じるか

内海新聞(T先生のブログ)の丹後の風力発電所計画

神の国日本がどんどん穢されていく - 内海新聞のブログ

を読んで、(。-`ω´-)ンー…と思いながら数日経って、なんだか気になったので、どんな所なのかグーグルマップで見に行ってみました。

 

太鼓山 と 依遅ヶ尾山 と 磯砂山

 

パッと見の印象、太鼓山は元気がない。依遅ヶ尾山は健やか。磯砂山は拒絶。

 

なぜゆえそう感じたのか・・・

 

依遅ヶ尾山は大丈夫。磯砂山は拒否ってるから有無を言わさず入ったらダメ(人ではなく業者)。

 

最も気にかかったのは太鼓山。周囲の神社を表示しつつ、あちらこちらをグルグル巡ってみたところ、私的に気になる部分がいくつかあったので順に。

 

まずはこれ

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太鼓山の左下にある橙〇の場所。太鼓山から道を辿ってここに行き着く。

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ここの人にはたいへん申し訳ないのですが、正直、良い感じがしない。

 

この場所から山を降りると

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ここに着きます。この集落に愛宕神社。リゾートには守護無し・・・。

 

ここまで見て察するに、この地域というか、この一帯は、とても繊細なんじゃないでしょうか。この地に住む人々にしか扱えないようなシビアさみたいなものが在るような気がします。だから、この地をよく知らない他所者は、申し訳ないけれど遠慮願いたい・・・みたいな。

 

で、さっきの場所に戻る途中で【区画整理事業記念碑】を発見してしまう・・・。

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これには・・・どうしても良い印象が持てない。あぁここにもか。っていう気持ちになります。必ずしも悪いとは限らないんですけどね。異様なものが近くに集まってると、どうしても勘繰ってしまいますが、今回はスルー。

 

ここまでの3ヵ所、引きでこんな位置関係。

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もっと引いてみると、

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太鼓山と、この二つの山は、呼応しているように感じます。それぞれ独立しているけれど、三身一体みたいな。だからこの辺りは繊細なのかなと思ったり。

 

それなら、依遅ヶ尾山の方はなんで無関係に元気はつらつとしているのか。となるわけですが、

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この港街のあたり、めちゃくちゃ強くないですか? 土地というより人そのものが強い。そんな感じがします。行った事ないですけど(笑)。

依遅ヶ尾山の健全さというか、元気の源は、こっちからじゃないかなって。

 

まとめてみますと、

 

太鼓山は大人しいので、人を拒絶する事はないけれど、他山との関係もあり、とても繊細なのでバランスを崩すと元気がなくなる事もある。

 

依遅ヶ尾山は活発な港町と直結しているので、ちょっとやそっとでは影響されなさそう。それくらい元気。

 

磯砂山は秘めたる山で、姫気質?(ちょっとわがまま)だとすると、好みの者しか受け入れないので、気に入らなければ断固として拒否。

 

こんな感じです。

 

この山々に風力発電所を設置するというのであれば・・・

 

太鼓山に設置する場合、バランスを崩さないように細心の注意を払わないと、呼応する3つの山の元気がなくなって、海も元気がなくなって、その周囲に住む人の元気がなくなる。

 

依遅ヶ尾山に設置する場合、山に拒否されなくても、街の人達が拒否した場合、そのパワーが凄いので計画は頓挫する。街の人達が受け入れるのであれば、影響は最も少ない。(安易に受け入れる事はないでしょうけど)

 

磯砂山に設置・・・なんて、どうあっても無理。ろくなことにはならないので止めた方が身のため。

 

風力発電所設置反対運動、私は支持します。

 

<m(__)m>